「三日月宗近という機能」について

刀ミュ新作公演発表で混乱したので整理!

 

三日月宗近という機能」の前提

刀ミュにおける「三日月宗近という機能」について考察するにあたって、まず「つはものどもがゆめのあと」戯曲本より当該場面を引用します。

 

 

  • 第4場

髭切「…良い月だよ…欠けているけど…あの月、見えない部分も月なのかな。」

膝丸「兄者。俺には見えているものしかわからない。」

髭切「…見えない部分はいったい何処を照らしているんだろうねえ…それとも、そこは本当の闇なのかな。」

  • 第14場

  髭切は少し悲しそうな笑顔で、

髭切「見えない部分も月だったよ…しっかりと光を放ってる…その光はやっぱり見えないけど…。」

  • 第19・20場

M9「華のうてな1」

しく しく(頻く 頻く)……

くれ くれ(呉れ 呉れ) ……

かりそめの宴

うたかたの花火

生まれては消えゆく

春の夢

 

誰が為の

華のうてな

 

三日月宗近「…泰衡…何度目だろうか…こうしてお前と蓮の花を愛でるのは。」

藤原泰衡「…。」

三日月宗近「俺はな…幾度もこの時代に来て…幾度もお前と出会い…こうして蓮の花を愛でたのだ…幾度も…幾度もな。」

(中略)

藤原泰衡「…私が役割を果たせば…歴史は守られるのですな。」

三日月宗近「…ああ。」

藤原泰衡「…それが、形として、ものとして残った我らの使命。」

三日月宗近「…ああ。」

(中略)

M10「華のうてな2」

しく しく(頻く 頻く)……

くれ くれ(呉れ 呉れ) ……

纏う黒き衣

うたかたの役目

満ちては欠けてゆく

玉桂

 

半座分かつ

華のうてな

誰が為にそこにある

宿世分かつための

華のうてな

  • 第21場

三日月宗近「歴史とは、水のようなもの。初めから形など存在しない。」

小狐丸「では歴史とはいったいなんなのです!」

三日月宗近「…わからんな。だからこうして戦っている。」

(中略)

三日月宗近「…頼朝や泰衡は俺と同類でな。」

髭切「…?」

三日月宗近「後の世に、形の残った確かな存在。」

髭切「…形?」

三日月宗近「…形、生きていた証、亡骸とも言うがな。」

髭切「…そっか…だから、存在が確かなものに感情移入をしてしまうんだね。」

三日月宗近「…。」

小狐丸「ぬしさまは御存知なのですか?」

三日月宗近「…。」

小狐丸「三日月殿。」

  三日月宗近は答えない。

髭切「彼は答えないよ。それが三日月宗近なんだから。」

(中略)

髭切「僕はね、ずっと考えていたんだ。君が何を考え、どうしてあんなことをしたのか。君は大事なことは何も語らない。だから僕は君の心の中を想像した。そして僕なりの結論を導き出したんだ。」

  髭切は三日月宗近を見て、

髭切「そんなに難しくなかったよ。やっぱり僕たちは何処か似ているみたいだね。」

三日月宗近「…。」

髭切「小狐丸、これは芝居だよ。今から僕を三日月宗近だと思って聞きたいことを聞いてごらん。僕が彼を演じるから。」

小狐丸「…。」

(中略)

小狐丸「あなたのやっていることを…ぬしさまは御存知なのですか?」

髭切「歴史を守るためとはいえ、兄弟を争わせ、友と友とを殺し合わせる…そんなこと、主は知らなくていい。汚れ仕事は俺が勝手にやれば良い。」

(中略)

髭切「このようなことを耳に入れて陰らせたくはない。」

小狐丸「…三月殿。」

髭切「俺の名は三日月宗近。主の存在は俺にとって…。」

三日月宗近「髭切。」

  髭切が動きを止める。

三日月宗近「…もうやめにしよう。」

(中略)

三日月宗近「…時の流れの中ではな…光のあたらないものもいる。」

小狐丸「…。」

三日月宗近「…俺は三日月宗近。たかが三日月…されど、三日月の放つ小さな光でも…無いよりはましだとは思わないか?」

 

「つはもの」で登場した「華のうてな」はこの後の公演においてもしばしば挿入されますよね。これをワーグナーが活用したライトモチーフと同様のものとして説明したいと思います。ライトモチーフとは以下のようなものを指します。

楽劇、標題音楽などにおいて、ある想念、人物、感情、事物などと結びつけて用いられる動機。(中略)この技法はとくにヴァーグナーの楽劇において、最も典型的に活用された。*1

つまり、「華のうてな」が流れる際はつはもので語られた「三日月宗近」の文脈を想起するよう、作品が要請していることになります。

背景に三日月が浮かび上がるのと併せて、三日月宗近が登場していなくても三日月宗近の存在を演出するのです。

 

次に「三日月宗近という機能」の名称初出の「葵咲本紀」戯曲本からも当該場面を引用します。

 

  • 第13場

  雲が晴れ、三日月が姿を現す。

  鶴丸国永は三日月を眺め、

鶴丸国永「ははっ。そう来たか。まったく、驚かせてくれる。やっぱり俺を一番退屈させないのは、きみだ。」

  • 第14場

篭手切江「ちょ、ちょっと、そうだった。大事なことを忘れてた。貞愛さんは、どうして私たちが刀剣男士だってわかったのかな?」

永見貞愛「…あー、それはだなぁ。」

  雲が晴れて、三日月が見える。

永見貞愛「…今はまだ言えねえ。だが、俺はお前らの敵じゃねえ。あるひとから兄貴を救ってやってくれと言われてな。」

  • 第19場

蜻蛉切「…では、なぜ我らの正体を?」

  信康が三日月を見上げる。

松平信康「…ある方が現れての…名は名乗らなかったが…わしのことを友と呼んだ。…わしが、歴史の流れの中で悲しい役割を背負わされているともな。」

  • 第22場

鶴丸国永「主、ひとつ、わかったことがある。」

  空間が分かれる。

  信康と貞愛がいる。

永見貞愛「…では、我らのような者が他にも?」

松平信康「ああ、それぞれの時代にいるそうだ。」

永見貞愛「…刀剣男士の協力者。」

松平信康「ああ、名前も与えられた。」

永見貞愛「名前、ですか?」

  信康は頷き、

松平信康三日月殿はこう仰られた。」

  三日月宗近のシルエットが現れる。

三日月宗近「…ものに仕えし者…物部とでも名乗るが良い。」

  信康と貞愛は顔を見合わせる。

  審神者の間に戻る。

鶴丸国永「主、この世界には三日月宗近という機能がある。そういうことだな?

 

つはもの・葵咲の当該箇所より、三日月宗近「歴史の流れの中で悲しい役割を背負わされている」人物を歴史改変にならない範囲で救う役割を果たしており、それらのことを「三日月宗近という機能」と称しているといえるでしょう。また、同時にそのような人物らのことを「友」と呼び、「物部」という名前=役割を付与しているのです。

 

「静かの海のパライソ」からみる「三日月宗近という機能」のはたらき

「葵咲」で「三日月宗近という機能」があるとした鶴丸は「三日月宗近という機能」について以下のように言及します。

……ふざけやがって…。歴史の流れの中で、悲しい役割を背負わされてるやつもいるだ?…お前の言う歴史ってなんだよ…歴史に名を遺したやつばかりが、歴史を作ったわけじゃねぇんだぞ…助けてやれよ!救ってやれよ、三万七千人!ただの数字じゃねぇんだ、それぞれ命があったんだ!生きていたんだ!…連れていってやれよ、静かの海へ!パライソへ!やれるもんなら、やってみろ!!

パライソでは「三日月宗近という機能」のはたらきによって本来「撫で斬り」の三万七千のうちのひとりであった弟が生き延びました。これを受けての台詞ですね。この台詞は葵咲での明石国行の「…全てを救えないなら…誰も救えていないのと同じだ。」と同義のものであると受け取れます。

 

「連れていってやれ」とする「静かの海」についても定義を明確にしたいので、パライソ第20場を引用します。

  • 第20場

鶴丸国永「見ろよ、良い月だぜ!…良い月に、良い海。ははは、合わねぇな、戦とは。そうだ伽羅坊、知ってるか?月には海があるそうだぜ。」

大俱利伽羅「…月に、海?」

鶴丸国永「ああ、静かの海っていってなぁ。」

大俱利伽羅「……静かの海か。」

鶴丸国永「…ああ。」

 

M19「静かの海」

かつての足跡が 消えることのない

穏やかな場所

静かの海 沈黙の天

なぜ黙る なぜ噤む

静かの海 雄弁な地

何を語る 何を憂う

そこに風は吹かない

退屈な場所さ

「いつか行ってみたいな」

「ふっ……そうだな……」

 

「風」は「無常の風」(M5)=戦と読んでいいと思います。(cf,みほとせ・万の華うつす鏡)

よって、「静かの海」は戦の起こらない穏やかな場所ということになります。

「パライソ」は「天国」であると作中で松井江によって明言されているので、静かの海のパライソ”=戦の起こらない穏やかな天国と定義できます。鶴丸の「連れていってやれ」や心覚での豊前江の「連れていってやれればなぁ」といった趣旨の発言から、静かの海のパライソ”に行くことはプラスの意味を持つ、つまり救済のようなものであると捉えられます。また、同時にそこに到達できない存在であることが読み取れます。つまり、「三日月宗近という機能」のはたらきによって静かの海のパライソ”に到達できない=救済されない人々が生じたことになります。

 

水心子正秀と「三日月宗近という機能」

ここがいちばん複雑なんですけど。

水心子正秀と三日月宗近および「三日月宗近という機能」の関わりを整理するにあたって心覚の水心子の状態を整理します。

彷徨う水心子正秀

心覚で水心子正秀は「古い映画のコマ送りのようにくるくると時代が巡る」「そうしているうちに、自分が今立っている場所が分からなくなる」状態であることが第3場にて清磨に明言されていますね。この状態をここでは彷徨っていると表現していきたいと思います。

心覚の場面として、歴史上の人物である平将門太田道灌・天海・勝海舟それぞれの時代の他に

・”東京”かつて江戸だった場所=現代

・いつかの時代

・本丸

が登場していることがJ-LODliveの文から分かります。水心子正秀はこれらを含むあらゆる時代の巡りに混乱しますね。そして、心覚にはこの7つの場面に属さない場面が登場しています。水心子正秀の心の中です。その最たる例が第20場の映像の三日月宗近と対峙する場面などです。

むすはじで長曾祢さんが陸奥守との思い出を回想する場面などはあっても、心の中の世界が舞台上に演出された刀剣男士の例は他にありません。つまり、水心子正秀はこの点において異質であることになります。水心子正秀は自身の心内世界に彷徨っているのです。

水心子正秀は自身の心内世界に彷徨う際には⑴古い映画のコマ送りの映像⑵フィルムが擦り切れるような「ジジッ」という音⑶ベートーヴェンピアノソナタ「悲愴」のどれかがモチーフとして用いられていたりします(花暦第11話でも「悲愴」流れてましたね)。

水心子正秀が彷徨うことになった原因は大きくふたつです。

①「三日月宗近という機能」を目の当たりにしたことで守るべき歴史とは何かがわからなくなった

②それにより、自己と他者の境界線が曖昧になった

 

     

これを踏まえて、本筋の水心子正秀と三日月宗近に戻ります。

 

先程のパライソ部分の鶴丸や葵咲の明石、そして心覚の水心子に共通することとして誰かひとりを救済できたことを嬉しく思うよりも誰かひとりを救済するにあたって犠牲になったひとびとがいることにやるせなさのようなものを感じていることが推察できます。

歴史の流れの中で、悲しい役割を背負わされている者へ向けるあなたの眼差しは優しい。……だが、彼は?彼はそうではないのか?我らが守ろうとしている歴史は、未来は、誰のための歴史なんだ!?

この第15場の水心子の台詞とかもそれが表れているように感じます。

直前の第14場と跨ぐように「華のうてな」が挿入されていることからも、このあなた三日月宗近と断定できます。

 

水心子が彷徨うことになった原因として三日月宗近を挙げました。

これについて、彷徨わなくなった場面を参照します。

  • 第21場

水心子正秀「心配には及ばない」

源清磨「水心子!」

水心子正秀「我が主よ、しばらく私の思うようにやらせてもらえないだろうか。どこまでできるか分からないが、あの時、三日月宗近の目には悲しみが浮かんでいた。出来ることなら彼を救いたい。だが恐らくそれは出来ない。なぜなら世界はそういう風にできていない。そうだね、我が主?……少しくらいなら、彼の背負っているものを軽くすることができるかもしれない。」

源清磨「……水心子」

水心子正秀「歴史とは、大きな河のようなもの。確かにそれはそうなのだろう。だがな、我が主。小さな川のせせらぎの美しさに、心が洗われることだってあるはずなんだ」

ここで「心配には及ばない」と述べていること、彷徨う原因になった「三日月宗近という機能」を把握したうえで三日月宗近を救いたいと述べていることから、ここが彷徨いの終着点であるといえます。

 

この彷徨ってるのに平将門太田道灌が関連深いんだけどここでは割愛します。

 

そして、次に水心子が彷徨っていたことが収斂するM17「はなのうた」曲中の語りに着目します。

水心子正秀「……ずっと不思議だったんだ……僕には世界が歪に見えてた……見上げる月はいつも三日月だった。でも、そんなはずないんだ。見えていなくても月はそこにあるんだ。まあるいはずなんだ」

(中略)

水心子正秀「……歴史はね……勝った者の……残した歴史でしかなかったんだね」

源清磨「……」

水心子正秀「……本当のことなんか誰も覚えていない……今は悲しくても、これから先に残るのが『願い』なら、僕はそれでいい……」

(中略)

水心子正秀「記憶にも、記録にも残らなくても……そこにいたんだ。……ようやくわかったよ。愛しいと思う心も、歴史を繋いでいたんだ。」

 

これはつはものの髭切の台詞と共通しますよね。

  • 第4場

髭切「…良い月だよ…欠けているけど…あの月、見えない部分も月なのかな。」

膝丸「兄者。俺には見えているものしかわからない。」

髭切「…見えない部分はいったい何処を照らしているんだろうねえ…それとも、そこは本当の闇なのかな。」

  • 第14場

  髭切は少し悲しそうな笑顔で、

髭切「見えない部分も月だったよ…しっかりと光を放ってる…その光はやっぱり見えないけど…。」

「見えていなくても月はそこにあるんだ。まあるいはずなんだ」=「…見えない部分も月だったよ…しっかりと光を放ってる…」ということになります。

 

三日月宗近という機能」の働きによって救済できるのは「歴史の流れの中で悲しい役割を背負わされている者」のみであるので、その他は救済できないという命の取捨選択が発生している状態にあります。

救済できないということは絶望、暗闇であると捉えられます。しかし、これが「本当の闇」であるとすると、それはそのあと「見えない部分も月だった」と否定されています。

つまり、一見光が届いていない範囲も救済可能な範囲であるということになるのではないでしょうか?

 

このあたりは先程割愛した平将門が関わったりします。

心覚第15場で平将門が射られて死亡した際、それを見た水心子は「彼はそう(歴史の流れの中で悲しい役割を背負わされている者)ではないのか?」と疑問を口にします。つまり、水心子は平将門が切り捨てられる側=暗闇に位置する人物であると認識したことになろます。しかし、第25場において平将門三日月宗近の「友」=「歴史の流れの中で悲しい役割を背負わされている者」であることが明らかになりますね。

 

おわりに

心覚を読解したときのを切り貼りしたので論が飛んでるところがあるかもしれません。

三日月宗近という機能」を整理したくなったのは、Twitter(現X)で「三日月にもの申したいひとそろい踏み」とか「まず三日月殴られるかもしれんwww」みたいなつぶやきを目にしたからです。それが解釈違いだったので……。

 

ちょこちょこ追記するかも、

 

 

 

引用

御笠ノ忠次『戯曲 ミュージカル『刀剣乱舞』‐つはものどもがゆめのあと‐』(2021年4月 集英社)

御笠ノ忠次『戯曲 ミュージカル『刀剣乱舞』‐葵咲本紀‐』(2021年4月 集英社)

 

ミュージカル『刀剣乱舞』∼静かの海のパライソ∼2021年11月25日夜公演

ミュージカル『刀剣乱舞』‐東京心覚‐2020年5月23日夜公演

*1:下中邦彦『音楽大事典 第3巻』(1982年4月 平凡社)に拠る。